『BPM ビート・パー・ミニット』(ネタばれあり)
先週末、新宿武蔵野館で映画『BPM ビート・パー・ミニット』を観た。
上記サイトの予告編だけを見れば、この映画はアクトアップ・パリの活躍を描いたものであるかのように見えるだろう。
また、このサイトに寄せられている「応援コメント」も、アクトアップ・パリの活動の輝かしさに焦点が当たっているように思える。
しかし、この映画はアクトアップ・パリの活動を称揚するだけの単純な映画なのではない。ここで描かれているのは、アクトアップ・パリという組織、そしてアクトアップ・パリが得意とする象徴闘争的な闘争手法と、死にゆく個人との間の葛藤であり、その死にゆく個人を礎として活動を拡大させていく組織の不気味さでもあるのだ。
映画を見ていて印象に残ったシーンとして、血糊の水風船を投げつけるシーンがある。
映画冒頭のカンファレンスのシーンにおいて登壇者にアクトアップのメンバーが投げつける血糊の水風船。それは、AIDS患者の血を意味しているのだろう。HIVの感染経路の一つである血を。
この血糊の水風船は、アクトアップ・パリの抗議先である製薬会社のオフィス内においても存分に投げつけられる。これは自分たちAIDS患者の血なのだ。こうした血を放置しているのはお前たち製薬会社ではないか、この血を恐れよ!と言わんばかりの勢いで、オフィス中が血糊で真っ赤に染められていく。
ここで「血」は、象徴闘争の手段として用いられている。
製薬会社をはじめとする世間はAIDS患者の血液に恐怖し、そこから身を隠そうとしている。だからこそアクトアップは、その「血」を闘争手段として用い、オフィスを血で染め上げていく。
―――しかし、これは大きな反動をともなう手法だ。
というのも、AIDS患者の象徴としてその「血」を投げつけることを闘争手段とするのであれば、結局のところ「AIDS患者の血は恐ろしいものである」というイメージを強化することになってしまうからだ。その手法を取り続ければ続けるほど、イメージは固着し、強化されていくことになる。
そして、後半に描かれる死を目前に控えたショーンの絶望は、こうした組織の闘争手段と自分の心境との乖離に由来しているのではないか。
ショーンは、来るべきプライドパレードについて語るチボーになぜ苛立ちを隠せなかったのか。そしてチボーをなぜ病室から追い出したのか。
チボーがショーンの病室で提案していたのは、オベリスクにコンドームを被せ、セーヌ川を血の色で染めるというプランだった。そのことを嬉々として語るチボーに対し、ショーンは「何言ってんだ」とでも思ったのではないか。
なるほど、セーヌ川を血の色で染めればそれはそれはインパクトのある壮大なデモンストレーションになるだろう。しかし、そのような「血」の象徴闘争は、ますますAIDSという病気をモンスター化するだけではないのか。そして、死を間際にしたAIDS患者とは遠いところで、良からぬイメージを強化するだけではないのか。
チボーの提案は、ショーンを孤独に追い込んだのだろう。一方、そのショーンの孤独を救うのは恋人のナタンであり、それを象徴するのが「手こき」のシーンだ。
重い病身のショーンはナタンとセックスをすることはできないが、ナタンはショーンのペニスを握り、手こきすることでショーンを満足させようとする。そして、ショーンは射精し、満足そうにナタンに向かって微笑む。
この二人の間を媒介する精液が担う役割は、アクトアップ・パリが投げつける血糊の風船爆弾とは真逆のものだ。精液も血液もHIVの感染経路となるわけだが、血糊の風船爆弾が恐れを抱かせる一方で、ナタンの手によって放出されるショーンの精液は愛を感じさせる。このときのショーンにとって重要だったのは、自分の体液をもって他者を怖がらせることではなく、自分の体液を怖がることなく受け止めることのできる存在だったのだ。
ショーンの不可解な死の後、アクトアップ・パリは大規模な集団行動を起こす。それは数百人規模でのダイイン(die-in)であり、セーヌ川を血の色で染めることだった。そしてまた、ショーンの遺言により、遺灰の一部はアクトアップ・パリのメンバーによってお偉いさんの集まるパーティ会場で、あらゆる料理の上に撒かれることになる。
アクトアップはこれまでの活動の中で様々なことを達成してきたが、パリのみならずアメリカの活動においても、ショーンと同じような葛藤を抱いた人はいたのであろう。この映画の魅力は、まさにその葛藤を描ききっているところにこそある。そしてまた、そうした個人の葛藤を飲み込みながらも活動を続ける社会運動体の怖さを、意図せずとも描いてしまっている点も興味深いのだった。
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「ホモソーシャル」概念の起源
「ホモソーシャル」概念がクィア理論ないしはゲイ・スタディーズにとって決定的に重要な概念であることは、今さら言うまでもない。
イヴ・セジウィックによって提唱されたこの概念は、ホモフォビアを同性愛者に対する単なる嫌悪感情や憎悪、侮蔑などではなく、社会構造として考えることを可能にした。
ホモフォビアとは、ホモフォビックな心理的傾向をもつ人たちによって為されるものだけではなく、構造的に行使される暴力なのだ。では、その構造に対してどのように抗い、構造を覆していったら良いのか。
セジウィックによって切り開かれたこのような問いの地平が、ジュディス・バトラーの理論と呼応し、ホモフォビックにしてミソジニーな社会秩序の撹乱/転覆をめぐる議論がさかんになった。
しかしこれはすでに20年近く前の出来事なのであって、現代の日本においては「ホモソーシャル」概念は不当に軽く扱われてしまっている。
次の二つのツイートは、「ホモソーシャル」概念の扱いの不当さに対する抗議のつぶやきであると、わたしは思った。
「ホモソーシャル」は日本語です。外来語ですが。ホモフォビアとかレイシズムとかいうのと同じです。家父長制を支える男性同士の社会的・感情的な関係性を指し、しばしば女性嫌悪と同性愛嫌悪をその特徴とします。 https://t.co/m3ZaqYCVYO
— SHIMIZU Akiko(清水晶子) (@akishmz) 2016年6月1日
使いません RT@kentarotakahash:安冨さんの意図とか、時代性がどうとかいう話の前に、「ホモソーシャル」という言葉を日本語で表すには何が適当なのか、識者が示してくれないと私達素人は「同性愛」「同性愛的」を使っちゃうよね。https://t.co/3nAskLjzZH
— ぽんす (@ppponsu) 2016年6月1日
恋愛とは三角関係なくして生じない。しかもライヴァルは憎まれると同時に愛されもするという二重の両義的存在となる。だが、これをさらに敷桁し、レヴィーストロースやジラールが思いもよらなかった方向に傾斜させ、異性愛関係を同性愛関係によって説明する理論が登場する。いうまでもなくイヴ・コソフスキー・セジウィックのホモソーシャル理論である。Amehare's quotes: 欲望の三角形
ジラールの精神分析理論は「欲望の三角形」という言葉によって知られる。欲望とは根源的に他者の欲望の模倣であり、「わたし」が欲望するものは、「わたし」にとって羨望の対象である他者が欲望するところのものである、という認識が、ジラールの理論の根底にある。
「わたし」の欲望とは、実は他者の欲望の模倣にすぎないのだとすると、「わたし」と他者は必然的に競合関係に陥ることになる。なにしろ「わたし」と他者は同じ対象を欲望し、その欲望の対象がひとつしかない場合、その対象を手に入れられるのは「わたし」か他者かのどちらか一方でしかあり得ないのだから。
そのような関係をジラールは「決闘関係」と呼んでいるが、この関係を続けている限り、互いの互いに対する攻撃も継続することになりかねない。そこで、この決闘関係に終止符を打つために、欲望を引き起こす対象そのものを打ち捨てる行為=供犠が為されることとなる。
欲望の三角形が二人の男性と対象からなるとき、ホモソーシャルとは、基本的にこの決闘関係のことを指す。そして決闘関係の末に打ち捨てられる欲望の対象が「女性」となり、これがホモソーシャルにおけるミソジニーの構造だ。
一方、この決闘関係においては、「わたし」の欲望が他者の欲望よりも勝り、純粋であることを示さなくてはならない。欲望の対象に「女性」が措定されたときには、その「女性」に対する「愛」がことさらに表現されることになる。
そしてその一方で、自らが純粋に「女好き」であることを示すために、同性愛の可能性は徹底して排除される。たとえ「わたし」と他者との間に、性愛的な関係と見紛うほどの親密な関係があったとしても。これが、ホモソーシャルにおける同性愛嫌悪の構造である。
いまやこうした背景が忘れ去られ、「ホモソーシャル」概念はどのような場面においても適用可能であるかのように用いられているが、その適用の妥当/非妥当について吟味が必要な場合も多くあるんじゃないだろうか。
長々と書いてしまったせいで、この記事の当初の着地点を見失いつつあるが、当事者のいない場で、同性愛/同性愛者に関する「真実」がまことしやかに語られるとき、そこではフーコー的な意味での知/権力が作用しているし、それが「ホモソーシャル」概念に関して作用しているというのであれば、そこでは「われわれ」の手から、「ホモソーシャル」概念という重要な「武器」が奪われつつあるのだ、ということにもっと注意を払ったほうがいい、というのは確かなことだろう。
@kusaty氏のリプに応える(オナホ問題とクィア)
一昨日書いたブログ記事にステキなリプをいただいたので、返信しよう。
オナホ疑惑のある人にオナホ使用者かを聞くコトは、不躾で失礼な質問ですが、オナホ使用者の尊厳を傷つけ自己決定権を脅かすほどの危険で暴力的な質問ではないですよね?
— 腐れ厨房(゚腐゚) (@kusaty) 2016年5月26日
ホモの場合には、そうなる理由を尻たいです。
https://t.co/qvTGO5e9dz
同性愛者に限らず「クィア」と称される人々にとって、他者によって自らのセクシュアリティが暴露(アウティング)されることは、少なからぬリスクを伴うことだ。
同性愛に関しては少しずつ理解が深まりつつあるものの、バイセクシュアルの存在の認知はいまだに進んでいないし(私もその一人であるのだが。そして、バイセクシュアルが不在・不可視のままで「LGBT」という言葉だけが流行するおかしさよ)、「性的指向」という概念を基礎としないセクシュアリティに関しては蚊帳の外に置かれており、理解の対象とすらされていない場合もある。
このような状況において、他者からカミングアウトを強要されるような局面に立たされることは、「クィア」と称される人々にとって非常に恐ろしいことだし、暴力に晒されている感覚が生じるものだ。
ところで、リプ主である@kusaty氏が例として挙げる「オナホ使用者」に関してだが、「オナニー」もかつて精神医学的に有害だと言われた時期があったことを思い出す。いわゆる「オナニー有害論」だ。(オナニー有害論に関しては、社会学者の赤川学が歴史社会学的研究を行っているが、web上の記事としてはこちらが詳しい。→http://www.menscyzo.com/i/2014/10/post_8501.html)
そう、かつてはオナニーを頻繁にする者は重い社会的スティグマを刻印されていたのだ。そして、そのような時代にはオナニーの話を公然と行うことは憚られており、オナニーを愛好する人々は一種の「クィア」であったと考えられる。
また、そのような時代においては、人のオナニーについて強引に聞き出そうとする行為はやはり暴力となり得たのではないか、と思うのだ。
だとすると、現代のクィアをめぐる問題とオナニーをめぐる問題は、無関係でないどころか深く関係していると考えられる。ミシェル・フーコーが『性の歴史』第1巻において、若者のオナニーの規制を近代的な権力との関係において考察していたことからも、それは明らかである。
こうした歴史的側面のみならず、現代の様相を見てみても、「オナホ」といってもTENGAのようなものから幼児のイラストがパッケージに印刷されているものまで様々であり、ここにオナホそのものの多様性、すなわちダイバーシティを観察することができる。
さらに男性のオナニーの多様化も見過ごせない。いわゆるアナニーは、ヘテロセクシュアリティとホモセクシュアリティの境界に位置しているとも言うことができる。
…と、さまざま書いたのだが、この問題はさらに追求していくことができそうなので、以降の課題としたい。
「君って同性愛者なの?」と聞くことの暴力
きたろう、映画で共演した羽生結弦に楽屋で同性愛疑惑直撃 (週刊女性PRIME) - Yahoo!ニュース
「疑惑」という言葉を使うと、あたかも同性愛が悪事であるかのように聞こえてしまうのが問題なのに雑誌出版社の校閲部がスルーするのは何なのか。ゲイのプロ野球選手がいたとして、「同性愛」に「疑惑」をくっつけて、「八百長疑惑」「賭け野球疑惑」と同列に扱うのが正常な言語感覚だとでも言うのか。
— 可寝た (@tomoyukix) 2016年5月24日