「君って同性愛者なの?」と聞くことの暴力
あなたが仮に同性愛者で、さして親しくもない人間から唐突に「君って同性愛者なの?」と聞かれたら、なんと答えるだろうか?
「いや、違いますよ」
とっさにこんな言葉が出てきてしまうかもしれない。
さして親しくもない人間に対して、自分のプライバシーをさらけ出す必要はないからだ。あるいは、「ええ、そうですよ」と答えることで、本人が望んでいないにもかかわらず大きな騒ぎとなってしまうことを避けようとするために。
きたろう、映画で共演した羽生結弦に楽屋で同性愛疑惑直撃 (週刊女性PRIME) - Yahoo!ニュース
上に掲載した記事は、セクシュアリティをめぐって引き起こされた暴力を伝える記事であるとともに、記事そのものが同性愛者に対する暴力を行使している。
セクシュアリティを秘匿にすることは、誰にとっても大切な権利であるはずだ。
セクシュアリティをカミングアウトすることが、誰にとっても重要な権利であるのと同様に、セクシュアリティの秘匿もまた、個人の人格の尊重そして尊厳に関わる重要な権利であるだろう。セクシュアリティのカミングアウトと秘匿の権利は、ともに尊重されなければならない。
この権利をめぐって重要なのは、自分がどのようなセクシュアリティであるかは自分が決めるのだし、その公開も自分自身が決定するのだということだ。
「私」のセクシュアリティは根本的に「私」の手元にあるものなのであり、それに関わる一切は「私」が決定するのでなければならない。
この自己決定権の貫徹こそが、セクシュアリティに関する自己の尊厳を守ることにつながる。
したがって、浅薄な出歯亀根性や覗き見趣味によって、こうした自己決定権が脅かされることは、極めて暴力的であり危機的なことなのだ。
誰が同性愛者であろうと、それを強制的にカミングアウトさせることも間違っているし、他人にアウティングさせることも間違っている。そしてまた、「疑惑」の二文字を付け足すことも間違っている。
こうした間違い=暴力が、いかに同性愛者たちの尊厳を傷つけているか、きたろうが出演したラジオ放送の関係者や、週刊女性の記者は少しでも考えたことがあるのだろうか。
「われわれ」は、メディア関係者のゲスな出歯亀根性や覗き見趣味を満たすために存在しているのではないのだ。
「疑惑」という言葉を使うと、あたかも同性愛が悪事であるかのように聞こえてしまうのが問題なのに雑誌出版社の校閲部がスルーするのは何なのか。ゲイのプロ野球選手がいたとして、「同性愛」に「疑惑」をくっつけて、「八百長疑惑」「賭け野球疑惑」と同列に扱うのが正常な言語感覚だとでも言うのか。
— 可寝た (@tomoyukix) 2016年5月24日