クィアィ

可寝た(twitterID @tomoyukix)のブログです。クィアの自由と自律の獲得、そして連帯に向けた言説実践を行います。

@kusaty氏のリプに応える(オナホ問題とクィア)

一昨日書いたブログ記事にステキなリプをいただいたので、返信しよう。

同性愛者に限らず「クィア」と称される人々にとって、他者によって自らのセクシュアリティが暴露(アウティング)されることは、少なからぬリスクを伴うことだ。

同性愛に関しては少しずつ理解が深まりつつあるものの、バイセクシュアルの存在の認知はいまだに進んでいないし(私もその一人であるのだが。そして、バイセクシュアルが不在・不可視のままで「LGBT」という言葉だけが流行するおかしさよ)、「性的指向」という概念を基礎としないセクシュアリティに関しては蚊帳の外に置かれており、理解の対象とすらされていない場合もある。

このような状況において、他者からカミングアウトを強要されるような局面に立たされることは、「クィア」と称される人々にとって非常に恐ろしいことだし、暴力に晒されている感覚が生じるものだ。

ところで、リプ主である@kusaty氏が例として挙げる「オナホ使用者」に関してだが、「オナニー」もかつて精神医学的に有害だと言われた時期があったことを思い出す。いわゆる「オナニー有害論」だ。(オナニー有害論に関しては、社会学者の赤川学が歴史社会学的研究を行っているが、web上の記事としてはこちらが詳しい。→http://www.menscyzo.com/i/2014/10/post_8501.html

そう、かつてはオナニーを頻繁にする者は重い社会的スティグマを刻印されていたのだ。そして、そのような時代にはオナニーの話を公然と行うことは憚られており、オナニーを愛好する人々は一種の「クィア」であったと考えられる。

また、そのような時代においては、人のオナニーについて強引に聞き出そうとする行為はやはり暴力となり得たのではないか、と思うのだ。

だとすると、現代のクィアをめぐる問題とオナニーをめぐる問題は、無関係でないどころか深く関係していると考えられる。ミシェル・フーコーが『性の歴史』第1巻において、若者のオナニーの規制を近代的な権力との関係において考察していたことからも、それは明らかである。

こうした歴史的側面のみならず、現代の様相を見てみても、「オナホ」といってもTENGAのようなものから幼児のイラストがパッケージに印刷されているものまで様々であり、ここにオナホそのものの多様性、すなわちダイバーシティを観察することができる。

さらに男性のオナニーの多様化も見過ごせない。いわゆるアナニーは、ヘテロセクシュアリティとホモセクシュアリティの境界に位置しているとも言うことができる。

…と、さまざま書いたのだが、この問題はさらに追求していくことができそうなので、以降の課題としたい。