クィアの自由と連帯

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「ホモソーシャル」概念の起源

ホモソーシャル」概念がクィア理論ないしはゲイ・スタディーズにとって決定的に重要な概念であることは、今さら言うまでもない。

イヴ・セジウィックによって提唱されたこの概念は、ホモフォビアを同性愛者に対する単なる嫌悪感情や憎悪、侮蔑などではなく、社会構造として考えることを可能にした。

ホモフォビアとは、ホモフォビックな心理的傾向をもつ人たちによって為されるものだけではなく、構造的に行使される暴力なのだ。では、その構造に対してどのように抗い、構造を覆していったら良いのか。

セジウィックによって切り開かれたこのような問いの地平が、ジュディス・バトラーの理論と呼応し、ホモフォビックにしてミソジニーな社会秩序の撹乱/転覆をめぐる議論がさかんになった。

しかしこれはすでに20年近く前の出来事なのであって、現代の日本においては「ホモソーシャル」概念は不当に軽く扱われてしまっている。

次の二つのツイートは、「ホモソーシャル」概念の扱いの不当さに対する抗議のつぶやきであると、わたしは思った。


この20年を経て、日本では「ホモソーシャル」概念はすっかり別のなにものかへと成り果ててしまったようだ。

ある人は「ホモソーシャル」概念を「社会学的」な概念と呼んでいたが、とんでもないことだ。社会学理論をどれほどあさってみても、「ホモソーシャル」ないしは「ホモソーシャリティ」と近似した概念は出てこない。

では、「ホモソーシャル」概念は何を起源としているのか。それはルネ・ジラール精神分析理論である。
恋愛とは三角関係なくして生じない。しかもライヴァルは憎まれると同時に愛されもするという二重の両義的存在となる。だが、これをさらに敷桁し、レヴィーストロースやジラールが思いもよらなかった方向に傾斜させ、異性愛関係を同性愛関係によって説明する理論が登場する。いうまでもなくイヴ・コソフスキー・セジウィックホモソーシャル理論である。Amehare's quotes: 欲望の三角形

ジラール精神分析理論は「欲望の三角形」という言葉によって知られる。欲望とは根源的に他者の欲望の模倣であり、「わたし」が欲望するものは、「わたし」にとって羨望の対象である他者が欲望するところのものである、という認識が、ジラールの理論の根底にある。

「わたし」の欲望とは、実は他者の欲望の模倣にすぎないのだとすると、「わたし」と他者は必然的に競合関係に陥ることになる。なにしろ「わたし」と他者は同じ対象を欲望し、その欲望の対象がひとつしかない場合、その対象を手に入れられるのは「わたし」か他者かのどちらか一方でしかあり得ないのだから。

そのような関係をジラールは「決闘関係」と呼んでいるが、この関係を続けている限り、互いの互いに対する攻撃も継続することになりかねない。そこで、この決闘関係に終止符を打つために、欲望を引き起こす対象そのものを打ち捨てる行為=供犠が為されることとなる。

欲望の三角形が二人の男性と対象からなるとき、ホモソーシャルとは、基本的にこの決闘関係のことを指す。そして決闘関係の末に打ち捨てられる欲望の対象が「女性」となり、これがホモソーシャルにおけるミソジニーの構造だ。

一方、この決闘関係においては、「わたし」の欲望が他者の欲望よりも勝り、純粋であることを示さなくてはならない。欲望の対象に「女性」が措定されたときには、その「女性」に対する「愛」がことさらに表現されることになる。

そしてその一方で、自らが純粋に「女好き」であることを示すために、同性愛の可能性は徹底して排除される。たとえ「わたし」と他者との間に、性愛的な関係と見紛うほどの親密な関係があったとしても。これが、ホモソーシャルにおける同性愛嫌悪の構造である。

いまやこうした背景が忘れ去られ、「ホモソーシャル」概念はどのような場面においても適用可能であるかのように用いられているが、その適用の妥当/非妥当について吟味が必要な場合も多くあるんじゃないだろうか。

長々と書いてしまったせいで、この記事の当初の着地点を見失いつつあるが、当事者のいない場で、同性愛/同性愛者に関する「真実」がまことしやかに語られるとき、そこではフーコー的な意味での知/権力が作用しているし、それが「ホモソーシャル」概念に関して作用しているというのであれば、そこでは「われわれ」の手から、「ホモソーシャル」概念という重要な「武器」が奪われつつあるのだ、ということにもっと注意を払ったほうがいい、というのは確かなことだろう。