クィアの自由と連帯

可寝た(twitterID @tomoyukix)のブログです。クィアの自由と自律の獲得、そして連帯に向けた言説実践を行います。

オマル・マティーンに「アライ」はいたのか?

オーランドにおける銃撃事件の犠牲者・被害者の方々に、心より哀悼およびお見舞いを申し上げます。

……さて、アメリカのオーランドのクラブ「パルス」で起こった無差別銃撃殺傷事件をめぐる事態は複雑を極めている。

いままでに容疑者のオマル・マティーンに関して知られているのは、次のようなことだ。

  • 妻子持ちである。
  • クラブ「パルス」の常連であった。
  • ゲイ用の出会い系アプリに登録し、使用していた。
  • アフガニスタンからのアラブ系移民の二世で、イスラム教を信仰する家庭でそだった。
  • 銃撃殺傷事件を起こす直前に、警察に電話をし、ISのシンパであることをほのめかしていた。
  • 前妻がおり、暴力が原因とみられる離婚をしている。
  • 当日のクラブ「パルス」では、トランス女性が主催するラテン系移民のイベントが開催されていて、容疑者はそれを狙ったかのように見える。
  • 自動小銃のほか、拳銃も使用し、クラブ「パルス」にいた人々を殺害した。
  • 過去、イスラム過激派との関係をFBIに疑われ、捜査を受けている。(結局その事実はなかった。)
クラブ「パルス」の常連であり、ゲイ用の出会い系アプリを利用していたことからも、マティーン容疑者はゲイだったのではないか、という憶測もなされている。

もし、マティーン容疑者がゲイであったのなら、彼と妻子との関係や、あるいはイスラム教徒である家族との関係はいかほどのようなものだったのだろうか。

それを少し想像してみただけでも、宗教的規範と自らの変えがたいセクシュアリティの狭間に生きるマティーン容疑者の過酷な心境が垣間見えるだろう。(こうした想像力を働かせず、個人病理の問題として矮小化する態度などあってはならない。)

イスラム教を棄教したり、別の宗教に改宗したりという発想はなかったはずだ。そのようなことをしたら家族とのつながりを永遠に失うことになっただろう。かといって、家族にカミングアウトするという選択はあり得ただろうか。言うまでもなく、その選択肢もなかったはずだ。

とはいえ、彼もまた自分自身に正直に生きたかったに違いない。しかし、生育環境がそれを許さず、彼は家族の期待に応えるような人生を送っていた。しかし、何かのきっかけでそれが限界を迎えてしまい、そして、クラブ「パルス」に集うラテン系移民の殺戮に至るった。

ここには、単にセクシュアリティの問題だけではなく、深刻なレイシズムが影を落としている。奇しくも共和党のトランプがヒスパニック系移民に対する攻撃を強めている分、尚更のことだ。しかし大事なのは、マティーン容疑者もアラブ系移民の子であり、レイシズムの被害を受けてきたであろうことが想像できる点だ。

また一方では、イスラムに対するアメリカ社会の反応も、マティーン容疑者を追い詰めていったことだろう。アラブ系というだけでテロリスト扱いされる風潮の中、彼は実際にFBIの捜査対象とされたのだった。

このような環境の中、何かがきっかけとなって、積もりに積もった憎悪が一挙に噴き出すこととなったのだろう。こうした複雑な背景を、ステロタイプに落とし込んで単純に理解してはならない。

ところで、わたしにとってひとつ気がかりなのは、マティーン容疑者の身の上をわかってあげることができる立場の人がいたのか、ということだ。

彼はクラブ「パルス」に通いながらも、孤独に過ごしていたという報道もある。マティーン容疑者の孤独を、少しでも和らげることができる人がいれば、もしかすると事件を防ぐことができたかもしれない。

日本ではいま、複数の「LGBT」団体によって「アライ(LGBTに理解のある人びと)」を増やそうという呼び掛けが行われている。

いままでカミングアウトを行うことが難しかった職場に「アライ」が増えれば、LGBのカミングアウトが容易になるかもしれないし、それによって過ごしやすい職場になるかもしれない。こうした異性愛社会に対する働きかけの必要性は言うまでもないことだ。

しかし、その一方で、「われわれ」自身もまた「アライ」である必要があるのではないだろうか。つまり、「LGBT」内における多様性に目を向け、「われわれ」内の少数者に対して手を差しのべる必要性があるのではないだろうか。

「われわれ」は、人種・民族的偏見や宗教的偏見、精神疾患への偏見、地域への偏見によって、意識的・無意識的に「LGBT」内部の多様性を消去し、ダブル・マイノリティやトリプル・マイノリティの人びとを追い詰めてはいないだろうか。こうした、ダブル・マイノリティやトリプル・マイノリティの人びとの「コミュニティ」からの抹消が、マティーン容疑者のような存在を生む土壌となった可能性はないだろうか。

LGBT」コミュニティの「内部」から「外部」に対して「理解」や「憎悪の解消」を求める活動に、何か問題があるわけではない。しかし、それと同時に、「LGBT」コミュニティの「内部」においても、セクシュアル・アイデンティティ以外のアイデンティティについての「理解」を深め、無関心をなくしていく試みが行われていくのでなければ、第二、第三のマーティン容疑者を生み出すことになってしまうのではないか。
そして、この種の無関心は、日本の「LGBT」シーンにおいてもあちこちで見受けられるのではないだろうか。たとえ気に入らない相手であっても、その相手の尊厳をむげに傷つけることはあってはならない。

無理解や無関心によって抑圧されたものは最終的に、最悪の形で回帰するのだ。
(…とはいえ、急いで付け加えなければならないが、わたしはクラブ「パルス」で犠牲になった人びとが無理解や無関心であったなどと言っているのではないし、犠牲になった人びとに責めがあるわけではない。どのような事情があるにせよ、人を傷つけ、殺めるようなことはあってはならず、まずはその犯罪行為が非難されてしかるべきだ。)