オマル・マティーンに「アライ」はいたのか?
オーランドにおける銃撃事件の犠牲者・被害者の方々に、心より哀悼およびお見舞いを申し上げます。
いままでに容疑者のオマル・マティーンに関して知られているのは、次のようなことだ。
クラブ「パルス」の常連であり、ゲイ用の出会い系アプリを利用していたことからも、マティーン容疑者はゲイだったのではないか、という憶測もなされている。
もし、マティーン容疑者がゲイであったのなら、彼と妻子との関係や、あるいはイスラム教徒である家族との関係はいかほどのようなものだったのだろうか。
それを少し想像してみただけでも、宗教的規範と自らの変えがたいセクシュアリティの狭間に生きるマティーン容疑者の過酷な心境が垣間見えるだろう。(こうした想像力を働かせず、個人病理の問題として矮小化する態度などあってはならない。)
イスラム教を棄教したり、別の宗教に改宗したりという発想はなかったはずだ。そのようなことをしたら家族とのつながりを永遠に失うことになっただろう。かといって、家族にカミングアウトするという選択はあり得ただろうか。言うまでもなく、その選択肢もなかったはずだ。
とはいえ、彼もまた自分自身に正直に生きたかったに違いない。しかし、生育環境がそれを許さず、彼は家族の期待に応えるような人生を送っていた。しかし、何かのきっかけでそれが限界を迎えてしまい、そして、クラブ「パルス」に集うラテン系移民の殺戮に至るった。
ここには、単にセクシュアリティの問題だけではなく、深刻なレイシズムが影を落としている。奇しくも共和党のトランプがヒスパニック系移民に対する攻撃を強めている分、尚更のことだ。しかし大事なのは、マティーン容疑者もアラブ系移民の子であり、レイシズムの被害を受けてきたであろうことが想像できる点だ。
また一方では、イスラムに対するアメリカ社会の反応も、マティーン容疑者を追い詰めていったことだろう。アラブ系というだけでテロリスト扱いされる風潮の中、彼は実際にFBIの捜査対象とされたのだった。
このような環境の中、何かがきっかけとなって、積もりに積もった憎悪が一挙に噴き出すこととなったのだろう。こうした複雑な背景を、ステロタイプに落とし込んで単純に理解してはならない。
ところで、わたしにとってひとつ気がかりなのは、マティーン容疑者の身の上をわかってあげることができる立場の人がいたのか、ということだ。
彼はクラブ「パルス」に通いながらも、孤独に過ごしていたという報道もある。マティーン容疑者の孤独を、少しでも和らげることができる人がいれば、もしかすると事件を防ぐことができたかもしれない。
いままでカミングアウトを行うことが難しかった職場に「アライ」が増えれば、LGBのカミングアウトが容易になるかもしれないし、それによって過ごしやすい職場になるかもしれない。こうした異性愛社会に対する働きかけの必要性は言うまでもないことだ。
しかし、その一方で、「われわれ」自身もまた「アライ」である必要があるのではないだろうか。つまり、「LGBT」内における多様性に目を向け、「われわれ」内の少数者に対して手を差しのべる必要性があるのではないだろうか。
「われわれ」は、人種・民族的偏見や宗教的偏見、精神疾患への偏見、地域への偏見によって、意識的・無意識的に「LGBT」内部の多様性を消去し、ダブル・マイノリティやトリプル・マイノリティの人びとを追い詰めてはいないだろうか。こうした、ダブル・マイノリティやトリプル・マイノリティの人びとの「コミュニティ」からの抹消が、マティーン容疑者のような存在を生む土壌となった可能性はないだろうか。
「LGBT」コミュニティの「内部」から「外部」に対して「理解」や「憎悪の解消」を求める活動に、何か問題があるわけではない。しかし、それと同時に、「LGBT」コミュニティの「内部」においても、セクシュアル・アイデンティティ以外のアイデンティティについての「理解」を深め、無関心をなくしていく試みが行われていくのでなければ、第二、第三のマーティン容疑者を生み出すことになってしまうのではないか。
そして、この種の無関心は、日本の「LGBT」シーンにおいてもあちこちで見受けられるのではないだろうか。たとえ気に入らない相手であっても、その相手の尊厳をむげに傷つけることはあってはならない。
無理解や無関心によって抑圧されたものは最終的に、最悪の形で回帰するのだ。
(…とはいえ、急いで付け加えなければならないが、わたしはクラブ「パルス」で犠牲になった人びとが無理解や無関心であったなどと言っているのではないし、犠牲になった人びとに責めがあるわけではない。どのような事情があるにせよ、人を傷つけ、殺めるようなことはあってはならず、まずはその犯罪行為が非難されてしかるべきだ。)